大判例

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大阪高等裁判所 昭和61年(ラ)78号 決定

抗告人 平ミキコこと金淑梅

主文

一  原審判を取消す。

二  抗告人が、本籍京都市下京区○○○通×条上る○○○町×××番地、筆頭者平キミ子、生年月日昭和7年2月6日、父亡平貞之助、母不詳、父母との続柄女、として就籍することを許可する。

理由

第一本件抗告の趣旨と理由は別紙(一)ないし(三)(別紙(一)省略)記載のとおりである。

第二当裁判所の判断

一  原審判の引用

原審判の理由説示中その冒頭から3枚目表7行目までを引用する。

二  事実の認定

原・当審の本件事件記録、当審における抗告人本人の審尋の結果、前示引用の原審判書記載の申立の実情、本件審理の全趣旨を総合すると次の事実を認めることができる。

(一)  明治18年12月12日平貞之助(以下「貞之助」ともいう)出生(記録19、36丁)。

(二)  大正1年貞之助は京都市で洋服の仕立をしていたが、京都府○○町で産婆として働いていた大場よね(大場三治郎・ふみの長女)と同年12月30日その父母と養子縁組をし同日同女と婚姻した(記録6丁、139丁表)。

(三)  その後貞之助は京都府○○町で呉服業を営み、一男一女を儲け、また二男の大場泰を妻よねが身ごもつていたが、その頃までに出入の旅館の芸者某女と懇になり、大正8年初頃妻子を残し胎児の名を「泰」と命名するように言残して芸者某女と共に出奔し、同年6月25日に二男大場泰が出生した後同年10月6日離縁、離婚届出を了した(記録36丁、135丁)。

(四)  昭和2、3年頃貞之助は芸者某女と朝鮮に渡り、朝鮮元山府○○○××番地に実兄平金蔵方に同居して(記録34丁)、芸者某女と同棲し電気会社に技師として生活していた。

(五)  昭和7年2月6日貞之助と芸者某女との間に抗告人平キミ子こと金淑梅が出生した(記録15丁)。なお、抗告人は出生届がなされないまま無戸籍であつたが、その後、後記のとおり朝鮮在住の中国人趙海嶺と結婚し、同人が抗告人に無断で届出た中華民国の戸籍には抗告人の生年月日が「民国11年(大正11年)2月6日」と記載されているが(記録18丁)、1件記録により認められる各事実、とくに抗告人が父平貞之助から聞かされて自己の出生年を皇太子出生年と同年であると記憶していることと、当審における抗告人審問の結果と抗告人の年格好、風貌など審理の全趣旨を総合すると、これは民国21年(昭和7年)の誤記であると認められる。

(六)  抗告人は現地の日本人学校に通学していたが、母は病弱で持病の冒病のため抗告人が5才位の頃病死した。

(七)  その後実父貞之助は転勤となり元山から離れることになり、抗告人は女中の朝鮮人「くも姉ちやん」と共に元山の警察部長をしていた日本人高村某に預けられたが、その後同高村の転勤に伴ない朝鮮咸鏡北道清津に転居した。貞之助は転勤後も抗告人の誕生日の2月6日に必ず元山の高村宅を訪れ、土産として抗告人の好物である粒あんぱんを持参し、抗告人に同女が日本人であることを言い聞かせ証拠の品を持たせている。なお、抗告人は女中の「くも姉ちやん」や右高村の妻から抗告人の母が京都で芸者をしていた人であると聞いていた。

(八)  昭和19年2月2日貞之助はそれまでに同棲していた朝鮮人金本春和との間に朝鮮咸鏡南道高原郡○○○○○○××で庶子平貴子を儲けたが(記録36丁裏)、翌20年2月6日の抗告人の誕生日に、清津の高村家を訪ねてきた。この時が抗告人が父貞之助に会つた最後である(父の当時の年令は59才)。

(九)  昭和20年終戦となるや右高村は占領軍に捕慮として連行されたが、その際高村の指示に従い抗告人は日本人であることを示す証拠物件の一切を身を守るため焼却した。また、父貞之助とも全く音信不通となつた。

(一○) 昭和22年頃抗告人は父を探し同邦の日本人や、これと共に帰国できる途を求めて筆舌に及ばぬ辛酸を重ねた末、一たん中国人の調理師趙海嶺と結婚し、昭和23年に前記の如く趙が抗告人に無断で結婚届をしたが、その際抗告人の出生地を中国山東省牟平縣と誤つて届出られた。昭和31年趙が病死し、昭和38年頃抗告人は同じ境涯にある日本人婦人60人位が所属する婦人会に参加し帰国の途を探つていたが、その頃知合つた中国国籍宋文鏡とともに、昭和41年5月次女桂蘭(昭和31年生れ、当時10才)のみを連れて帰国の近道と噂されていた台湾に渡つた。

(一一)  他方昭和27年1月29日、戦後単身で帰国していた貞之助は大阪府三島郡○○町大字○○××番地の×の自宅で死去(享年67才)している(記録19丁、36丁)。しかしこのことを知らなかつた抗告人は父の所在を求めてやまず、昭和40年、韓国の政権交替に伴ない日本との文通が可能となるや同年2月父の本籍地の京都市長に対し父平貞之助の戸籍照会の私信を出したところ、折り返えし京都市広報課から回答があり、さらに抗告人のアイデンテイテイ(自己の存在証明)を調べる手だてについても詳しいアドバイスの書信が届いた(資料41-1、2、42-1、2、43-1、2記録88丁ないし95丁)。

(一二)  そうするうち昭和41年5月15日抗告人は渡台後前記台湾人宋文鏡と結婚し(ただし宋は抗告人の意向を無視して結婚届をした。)、長女を産んだが、宋文鏡は日本人の迫害を受けた経験から、日本人である抗告人に事ごとく辛くあたり、抗告人は何度か自殺を考え苦しんでいる折、外国人居留調査があり、警察と市役所の人が来て帰国の希望が見え、自殺を思い止まつた。

(一三)  昭和48年抗告人は来日して以来今日まで肉親を探して懸命の努力をし、あらゆる手蔓を求めて心労を重ねている。なお、この間の事情は前示に引用した原審判書理由説示に記されているとおりである。

(一四)  なお、認知の点について付言すると父貞之助が抗告人につき胎児認知届もしくは出生時認知届をした事実は存しない。そして抗告人が父貞之助と最後に別れたのは昭和20年2月6日(抗告人の満12才の誕生日)であることは既述のとおりであり、半年後の8月15日終戦となり、抗告人が居た咸鏡北道はもちろん北朝鮮の日本人社会は大混乱となり、さらに昭和25年勃発した朝鮮戦争を体験し、当時仁川から家族とともに釜山まで退避し再び仁川に戻るという憂目に遇い、前記父の死亡も知る由もなかつた。

三  抗告人の国籍取得

旧国籍法(明治32年3月15日法律66号)1条は出生による国籍取得につき血統主義に立つ父系主義をとり、「子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキ之ヲ日本人トス」と定めている。

そして、前認定二の各事実に1件記録、当審における抗告人、参考人大場泰審問の結果、及び審理の全趣旨を総合すると抗告人は出生の時その父である貞之助が日本人であることを認めることができ、他にこの認定を覆すに足る証拠がない。

ところで、旧国籍法1条にいう「父」が非摘出子については民法上の「認知」を経たものに限定されるか否かにつき検討するに、同法3条、4条、5条3号をみるとこれらの規定にいう「父」が必ずしも「認知」を経た父であることを指すものとはいえず、認知前の父をも含む趣旨であることが解る。

そして、同法1条の「父」とは原則として法律上の親子関係の発生した父を意味するとみてよいけれども、その基礎にある血統主義の原則ないし同法3条、4条、5条3号などを考え併せると、特段の事情が存する場合には非嫡出子について、必ずしも旧民法(昭和17年法律7号による改正前)827条、829条ないし現行民法779条、781条の認知の届出のみによることなく、裁判所の手続により父子関係を認定しそれにより日本国籍の確認ひいては就籍を認めることを否定するものとは解しえない。すなわち前認定一の各事実によれば、本件の場合抗告人に関し右の届出や認知の訴に基づく届出手続をとらなかつた点につきまことにやむをえなかつた事情が存しており、このような特段の事情が存する場合には、父であることが確実で母の分娩にも匹敵する父母の同居、父の子に対する言動などにより事実上自己の子であることを認知する事実関係があり、かつ自然的父子の血縁が認定される場合には認知の届出をまたずして、これを旧国籍法1条の「父」と解して差し支えないと考える。

ところで前認定一の各事実、審理の全趣旨に照らすと、抗告人の父は日本人たる平貞之助であることが確定的に認定できるのであり、かつ抗告人の母も日本人である氏名不詳の芸者某であると認められ、同女は抗告人の出生前から夫貞之助と同居し抗告人を生んだ後同人の5才位の頃、病死したものであるし、貞之助は抗告人の満12才の誕生日まで父親としての撫育を続け事実上自己の子であることを認知していたものであり、かつ自然的父子の血縁関係が認められる。したがつて、抗告人は旧国籍法1条、または同法3条に準じて日本人となり、日本国籍を取得するものというべきである。

なお、抗告人は前認定一の各事実に照らすと、自らの意思で外国籍を取得したものとはいえないから、旧国籍法18条(大正5年法27号による改正後のもの)により日本国籍を失う場合に当らない(なお、現行国籍法11条参照)。

第三結論

以上のとおりであるから、抗告人につき主文二項の就籍許可を求める本件申立は理由があるから、これを却下した原審判を失当としてこれを取消し、主文二項のとおり抗告人の本件就籍を許可することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 廣木重喜 裁判官 諸富吉嗣 吉川義春)

別紙(二)

陳述書

1.審判書一の2「申立ての実情」について。

指摘の事実関係のうち次の点は申立人の陳述内容と相違している。

〈1〉 まず申立人が預けられた高村某であるが当初は元山に居住し、そこで父貞之助が転勤することになって預けられたものである。その後高村氏も清津に転勤になり同氏に連れられて「くも姉ちゃん」とも清津に行ったというのが真相である。この点審判書で単に「清津に住む高村某・・・・・・のもとに預けられ」云々となっている点を改め補充する。

〈2〉 審判書では終戦時の事情についてふれられてないが、この点は申立人の昭和61年2月10日付身上説明書3項に既述されているので参照されたい。この時申立人の身元を明らかにする証拠物一切が焼却処分されてしまったのである。

〈3〉 趙海嶺には「偶然」ではなく、ある事情経緯によって知り合った。即ち申立人が抱いていた日本への帰国希望を実現するための目的行動の中で知り合ったものである。

〈4〉 「台湾に渡るという宋文鏡に従い・・・・・・台湾に赴き」云々の指摘は間違っている。この点は、申立人の一連の説明書に述べられている通り、申立人が宋氏に出会ったのは台湾に渡ってから後のことである。なお、宋氏との結婚については昭和60年7月5日付説明書4項に詳述されている通り申立人の意思によるものでなく入籍を知ったのも後日のことであった。

〈5〉 その他事実関係については申立人が提出している四つの説明書をここに援用する。

2 審判書「二当裁判所の判断」について。

審判書は1、(一)において「平貞之助が申立人の事実上の実父であることを思わすもののあることは否定し得ないところである。」としながら平貞之助が申立人を認知した事実が認められない以上国籍法1条による日本国籍の取得は認められないとしている。然しながらこの点は次の点で法令の解釈適用を誤っていると解される。

〈1〉 まず当時の国籍法(明治32年法律第66号)第1条であるが「子ハ出生ノ時其父カ日本人ナルトキハ之ヲ日本人トス・・・・・・」と規定している通り「認知」が要件となっていない。よって事実上の父子関係があれば子は国籍を取得すると解される。何故なら、「認知」については同条に規定されていないほか、別途「認知」が要件になっている場合は例えば同法5条3号のようにその旨明定されているからである。即ち外国人の場合は「日本人タル父又ハ母ニ依リテ認知セラレタルトキ」に日本の国籍を取得すると規定されているが、この反面解釈からすると第1条においては認知が要件となっていないと解されるのである。

〈2〉 旧国籍法第1条を上記のように解すべきであることは最近の審判例をみても明らかである。東京家裁昭和59年(家)11509号昭和60年1月8日審判はその一例である。また京都家裁で昭和59年10月11日就籍を認容した審判も同じ例であると思われる(資料参照)。なおこれら中国孤児の場合中国政府の証明があることを認容判断の上で重要な根拠にされているとみられる。ところが、申立人のように終戦を朝鮮で迎えた日本人にとってはその後の朝鮮の国情の推移(朝鮮動乱から南北分離、李承晩政権等)からみても明らかな通り中国政府と同様の証明を受けることが考えられない。そこで申立人についても同様の証明を要するとすることは不可能を強いることになって不当である。

〈3〉 更に「認知」を要件とすると申立人のような場合には法的手段が全くないことになる。民法によれば死後認知の訴えは父また母の死後3年を経過したときは提起出来ないとされ、一方認知の訴えの特例に関する法律(法律第206号)によっても死亡の事実を知った日から3年以内に提起すべきものとされ、死亡の日から10年を経過したときは提起出来ないとされているからである。平貞之助は昭和27年1月29日死亡しているから申立人が特例法によって認知の訴えを提起出来るのは昭和37年1月29日までとなる。然るに申立人が日本国京都市役所に照会文書を発信出来たのは昭和40年1月頃であった。よって認知を要件とすることは、申立人に対しこれ又不可能を求めることであって不当である。

3 以上要するに申立人の事実上の父が平貞之助であることが客観的に証明されれば申立人は日本国籍を取得すると解すべきものと考えられる。よって原審判はこの点で明らかに法解釈を誤っている。

別紙(三)

陳述書

I 申立の実情について以下の通り補充して陳述する。

1 申立人の出生から終戦時までの経緯について。

申立人は昭和7年2月6日日本人の父平貞之助と日本人の母(氏名不詳)との間に京都市で生れた。2、3歳の頃父母とともに朝鮮に渡り、咸鏡南道元山に移住した。母は申立人が5歳の頃元山の病院で死亡した。申立人家は元山○町×丁目にあり、電気技士であった父はここから元山○町の電気会社に通っていた。申立人はこの申立人家も○町の電気会社も今なお明快に記憶している。申立人は申立人家から日本人学校に通った。学校は1教室40人位の男女共学で、担任は山下という女の先生であった。病弱であった申立人はよく腹痛をおこして学校の近くにあった○○病院に行った。母親の死後父の下で電工をしていた朝鮮人の妹さんが申立人家に女中としてやって来た。この人はくも姉ちゃんと言って以後申立人の面倒をみることになった。その後父は会社を転勤になり元山から離れた。その際父は申立人をくも姉ちゃんとともに元山で警察の部長をしていた日本人の高村某氏に預けた。申立人は以後終戦に至るまで高村家で養育された。高村家は申立人家のあった元山○町×丁目から電気会社のあった○町へ行く途中にあったことを申立人はよく覚えている。高村氏はその後咸鏡北道清津に転勤し、申立人とくも姉ちゃんも高村家とともに清津に行った。父は転勤後も元山の高村家にしばしば訪れては申立人に会った。とくに申立人の誕生日であった毎年2月6日には必ず訪れて申立人の好物であった粒あんパンを申立人に買い与えた。申立人が2月6日生れであるというのはこのことで知っている。申立人が最後に父と会ったのは終戦年の申立人の誕生日、即ち昭和20年2月6日であったと記憶している。この時父は清津の高村家までやって来て申立人に会った。この時申立人は、12、3歳(誕生日が来て13歳)であったと記憶している。この記憶などから申立人の出生年は昭和7年であるとみられるが、申立人が当時の皇太子殿下の新聞写真をみて殿下が大体申立人と同年令と思ったこと等、その他申立人の出生年を推認する事情については昭和61年9月27日付け身上についての説明書(その5)に詳しく記述しているのでこれを援用する。終戦時、高村氏は占領軍によって連行され補虜となった。この時高村氏の奥様は病気治療のため東京に帰っていて難をまぬがれた。高村氏は連行される前、電話で書類や日本人であることが判る物件一切を焼却処分するよう申立人らに指示したので、申立人とくも姉ちゃんは天照大神の神棚や書類、更には写真等一切のものを焼却処分した。申立人が大事に所持していた写真その他の物件一切もこの時に処分した。この時焼却した写真の中には着物を着た母の写真があったと思われるが、その点の記憶は定かでない。

2 申立人の父や母に関する記憶について。

申立人は父が「平貞之助」であることをその文字とともに父から聞いたり教えられて知っていた。また父から申立人の名前が「キミ子」であること、母が日本人の女性であること、申立人がその女性との間に京都で生れたこと、申立人が父母とともに2、3才頃に朝鮮に来たこと、日本の大阪か神戸には申立人のいとこが3人はいるから日本に行けば何とかなること、日本のおばに申立人を預けたかったが申立人が病弱でそれも頼めなかったこと、父が電気技士であること、平家の家紋が「ササリンソウ」(申立人は家紋の形を記憶しそれを前記のように呼称するものと記憶していたが、今般日本で調べたところ右形に該当する家紋の呼称が「さんまいささりんどう」であると教えられた。)であること等々を聞いて知っていた。なお申立人は父が最後に清津を訪れたときに申立人に対し、何とかして日本に帰るようにと言っていたことも記憶している。ただ父からは母の氏名等についてはとくに聞いていない。母が京都市で芸者をしていたということは高村氏の奥様とくも姉ちゃんから聞いて知っていた。申立人は父の顔をよく覚えているが、今般腹違いの兄である大場泰氏が保管していた写真(資料9)を見て申立人の記憶と右写真が一致していることを知った。

3 終戦後の経過について。

申立人は終戦時清津で日本軍の食糧倉庫に他の日本人らとともに拘束された。日本人は女、子供と年寄りであった。申立人は1週間位してからくも姉ちゃんのはからいで解放された。くも姉ちゃんは申立人を自分の妹であると嘘って申立人を解放してもらうことが出来たとのことである。この時くも姉ちゃんは他人に「平」(たいら)であることは絶対に言っては駄目、くも姉ちゃんの苗字である「趙」(ちょう)と言いなさいと注意された。申立人は昭和20年の暮れになって元山に行けば日本人がいて日本に帰れるかもしれないと思い、くも姉ちゃんに連れられて元山に向った。寒さ厳しいなかを歩いたり、貨物列車に乗せてもらったり、朝鮮人の家に泊めてもらったりしながら元山にたどりついた。この間15日間位であったが、筆舌に尽しがたい苦労であった。元山では父の知人であった朝鮮人の太陽という人を探したが尋ねあたらず、太陽の妹さんに一時身を寄せることになった。この時妹さん宅の近所の中華料理店に勤務していた中国人調理師趙海嶺氏と知り会った。一方くも姉ちゃんは太陽の妹さんに申立人のことを頼んで自分の郷里である清津の方に帰っていった。この終戦時のくも姉ちゃんの年令は17、8才ぐらいであったと申立人は記憶している。元山は申立人の予想に反して日本人が居ず、日本に帰れるあてもなかった。ただ更に南の仁川に行けば日本人がいて日本に船で帰れるとのうわさがあった。そこで丁度中国に帰国する予定のあった趙氏に連れられて仁川に行った。ところが仁川でも日本人が居ず、日本に帰れるあてもなかった。一方趙氏も中国に帰れなかったので申立人は趙氏と同棲することになった。かくして申立人は昭和22年に趙氏の子長女芳春を出産し、以後4人(昭和24年長男向仁、26年次男世仁、31年次女桂欄)の子供を出産した。申立人が長女を出産したのは15才位ということになる。なお趙氏は申立人の身の安全を考え、昭和23年に申立人を趙氏の中国籍に入れる手続をとった。ただ申立人は当時この入籍手続を全く知らず、このことを知ったのは後年のことであった。従って申立人の出生地が中国山東省牟平懸として届出られているが、申立人はこのことを知らず事実とも明らかに相違している。趙氏は右手続で申立人の出生を民国11年(1922年-大正11年)として届出ているが、申立人にはどうしてそうされたのかもわからない。ただ出生月日の2月6日は趙氏も申立人の誕生日を聞いて知っていたのでそのように届出たものとみられる。趙氏が申立人の出生年を民国11年として届出たのは自分(当時37、8才位)と申立人との年令差があまり大きくならないようにとの趙氏の配慮があったからか、あるいは申立人の出生年を民国21年生れ(昭和7年)と届出るところを間違って民国11年として届出たものとも考えられる。昭和25年朝鮮動乱が勃発し、申立人と趙氏は子供を抱えて仁川から釜山に逃げるなど生死の苦労をした。このような状況下で申立人の日本への帰国の希望などかなえられる筈もなく時が経過した。趙氏は昭和31年に仁川で病死した。昭和26年動乱が終結しても韓国は李承晩政権下で日本との交信も出来ず、申立人としては時機の到来を待たざるを得なかった。その後昭和38年頃に仁川にあった日本人会に入会した。同会は申立人と同じ境遇の日本人婦人60人位が所属していて定期的に会合を開いていた。昭和40年朴正熙政権になって日本との文通が可能となるや申立人は自らの記憶をたよりに京都市に戸籍照会の手紙を発信した。これに対し、京都市から平貞之助の戸籍が発見された旨回答を得た(資料41-1、2・42-1、2・43-1、2)。この時京都市担当官の勧めもあって新聞(資料44-1)を通じて肉親探しを行なったが名のり出る者がなかった。この時から申立人は日本への現実の帰国を切望するようになった。そのためにはまず台湾に渡るのがよいと考え、申立人は昭和41年5月に次女桂欄のみを連れて台湾に渡った。他の3人の子供はこの時既に独立していた。台湾では韓国の友人の紹介で宋文鏡氏と同棲することになったが、これも日本に一歩でも近づくためのやむを得ない過程であった。宋氏は申立人が宋氏の子を出産することが明らかになった昭和41年12月の段階で、自分の子供のことを考え一方的に申立人を入籍させる手続をとった。もとよりこの手続は申立人の意思によるものでないこと、趙氏の場合と同じであった。この宋氏との件についての詳細は昭和60年7月5日付け上申書に記述されているのでこれを援用する。申立人は宋氏との間に立波(昭和42年7月19日生)を出産したが立波は現在台湾の大学1年生であり、近所の知人に生活の面倒をみてもらっている。立波も申立人の日本国籍の取得を願っている。なお宋氏は昭和59年1月18日病死した。

4 申立人の就籍のための努力。

申立人は昭和48年にようやくにして来日した。以後昭和51年1月、昭和54年、昭和59年9月と4回に亘って来日し就籍のための努力をすることになったが、この間の事情経緯については昭和60年1月23日付申立書申立の実情4以下と原裁判所審判に記述された通りであるからこれを援用する。

II 申立人が日本国籍を有することについて。

このことについては前記申立の実情ないし、提出の諸資料に照らして明らかであると考えられる。法律上の父であるか否かはともかく平貞之助が申立人の血のかよった父であることは間違いないと思料される。一方申立人の母親についても詳細は不明ながら貞之助や関係人の言動、更には周辺の事情等に照らし、日本人であることは間違いないとみられる。なお、貞之助は昭和4年1月22日に朝鮮元山府○○○で兄平金蔵の死亡届を同居人として同月26日なしていること、昭和19年2月2日朝鮮咸鏡南道高原郡○○○○○○において金本春和(朝鮮国籍)なる女性との間に一女(貴子)をもうけている(資料13~15)が、だからと言って貞之助がその間に日本に帰国していないということにはならず、一旦帰国して日本人女性との間に申立人をもうけ、申立人らとともに再び朝鮮に渡ったことは十分考えられることである。その他何よりも申立人はもの心がついて以来、終戦まで日本人家庭において日本人学校に通うなど日本人として一貫して養育されて来た事実がある。申立人の父や自らの氏名の記憶を始めその他の記憶も申立人のかかる養育環境の中で得たものである。かかる環境下に申立人はもの心がついて以来、日本人であると自覚しひたすら日本への帰国を願い続けて今に至っている。現在では申立人のいとこである平佐代子のみならず腹違いの兄大場泰を確認するに至った。そしてこれら両名はいずれも申立人を肉親であると認知し(資料7、8)申立人の日本国籍取得を切実に願う状況にある。なお、申立人は既述の通り、趙氏と宋氏両名と同棲し、結果的に台湾籍を取得するに至っているが、いずれも申立人の意思に基づくものではなく、むしろ本件申立に至るまでのやむを得ない一つの過程に過ぎなかったとみられなくもない。従ってこのことが申立人の日本国籍取得の障害にならないものであることもまた明らかであると解される。

よって以上のことを及びこれまで申立てて来たこと更には提出の諸資料その他関連する事情等を考慮の上、申立人について就籍許可の決定ありたく申立てるものである。

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